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ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)の先頭に立った人々の展望は、彼らの青年時代にフルシチョフの暴露によって形成されたものだった。 当然ながら、人々は外部の世界についてだけではなく、自分たち自身や他の人々についても考える。

この場合には、認識作用と参加作用は時間の経過を待たずに互いに干渉し合う。 「私はあなたを愛する」とか「彼は私の敵だ」とかいう論述を考えてみよう。
このような論述は、それが伝えられる方法にもよるが、言及される人物に影響を与えずにはおかない。 あるいは結婚を考えてみよう。
この場合は思考する参加者がふたりいるが、そのふたりの思考はふたりが考え、感じていることと切り離され、独立した現実に向けられているのではない。 一方の参加者の思考と感情は他方の参加者の行動に影響する。
その逆もまたしかりである。 婚姻関係の進行に伴って、思考も感情もまったく認知できないほどに前と変わってしまうこともある。
時間の経過が認識作用と参加作用を遮断できるのであれば、相互作用性は思考とその対象との間の一種の短絡現象だと見なすことができる。 これが起こると、参加者の思考に直接的な影響を与えるが、外部の世界には間接的にしか影響しない。

参加者の自己イメージ、価値観、期待の形成における相互作用性の影響は、それが事件の進展に及ぼす影響よりも浸透力が強く、しかも瞬間的である。 断続的にしか起こらないにしても、特別な場合は、相互作用的な反応が参加者の見解だけでなく、外部世界にも影響を与えることもある。
このような事例は現実世界の現象としての相互作用性の重要性を立証するものであるため、特別の意義を帯びてくる。 これとは対照的に、人々の価値観相互作用性の社会的、経済的現象に対する影響を分析する次の段階は、私の言う不確定性要因が相互作用性それ自体によって生み出されたものではないという点を指摘することである。
相互作用性は参加者の側の不完全な理解を伴っていなければならない。 もしも一部の幸運な人々が完全な知識を授けられているとすれば、彼らの思想と外部世界との双方向の相互作用は無視できることになる。
世界の真実の状態が彼らの見解に完全に反映されているのであるから、彼らの行動の結果は彼らの予測と完全に一致するはずである。 不確定性は排除される。
不確定性とは、不正確な予測と、変化するかもしれないが常にバイアスをもつ人々の予測の意図せぬ結果との間のフィードバックから発生するものだからである。 思考する参加者が存在する状況には不確定性が含まれるという主張は、日常的な観察によって十分に裏書きされる。
にもかかわらず、これは経済学や社会科学では一般に受け入れられている結論ではない。 それはここで私が提示するような直接的な形では、提起されることさえめったになかった。
それどころか、不確定性の考え方は、科学的な方法で事件を説明できると主張する科学者から強く否定されてきた。 マルクスとフロイトはその顕著な例である。
しかし古典経済理論の創始者たちも、金融市場にとつて重要であるにもかかわらず、自分たちの研究分野からわざわざ相互作用性と自己イメージに特有な不確定さは、根本からして主観的なものである。 その理由は容易に理解できる。
不確定性、すなわち確固たる予測と満足のいく説明の欠如は科学の職業的地位を脅かすからである。 相互作用性の概念はあまりにも基本的なものであるため、私がこれを最初に発見したとはとうてい信じられない。
事実、そうではないのである。 相互作用性とは、思考と現実の双方向の相互作用の新しい呼称にすぎず、われわれの常識に深く浸透しているものである。

社会科学の領域の外に目を向けるならば、われわれは相互作用性が広く認識されていることが分かるだろう。 デルフォイの神託の予言は相互作用的であり、ギリシャ演劇にしても同様である。
社会科学においてさえも、時にはそれが認められている。 マキャベリは不確定性の要素をその分析に導入し、それを運命と名付けた。
トマス・マートン牧師は自己達成的な予言や便乗効果に注目している。 相互作用性に似た概念は、アルフレッド・シュッッが間主観性と名付けて社会学に持ち込んだ。
私はなにか神秘的な現象を論じていると思われたくない。 確かに人間の問題にはうまく説明できない側面もある。
だがそれは相互作用性がこれまで発見されなかったからではない。 社会科学全般、とりわけ経済学がそれをわざわざ覆い隠してきたからである。
相互作用性の概念を思想史のなかで位置づけてみたいと思う。 論述がそれによって言及される対象に影響を与えるかもしれないという事実は、嘘つきの命題を提起したクレタ島のエピメーデスによって最初に立証された。

クレタ人はつねに嘘をつく、と彼は言った。 彼はそう述べることによって自分の論述の真理性を問題にしたのである。
彼はクレタ人であるから、彼の言ったことの意味内容が真実だとすれば、彼の論述は虚偽だということになる。 逆に彼の論述が真実だとすれば、それが伝える意味内容は虚偽になる。
この嘘つきのパラドックスは知的好奇心をそそるものとして扱われたものの、それさえなければうまくいくはずの真理の追求を妨害するがために、長いこと放置されてきた。 真理とは論述の外部事実への一致として認識されるようになった。
いわゆる一致理論は二十世紀の初めから一般に受け入れられるにいたった。 それは事実の研究がりっぱな結果を生み、科学の成果が広く賞賛された時代だった。
科学の成功に意を強くしたバートランド・ラッセルは、この嘘つきのパラドックスに正面から取り組んだ。 彼の解決は、論述を一種類に分け、自分自身に関連する論述を含むものと、そのような論述を排除しているものとを区別することだった。
そして後者に属する論述だけが、決定的な真理価値をもつ適格な論述だと見なされた。 自己が関連する論述に関しては、それが真理であるか虚偽であるか区別できない場合もある。
論理実証主義者はバートランド・ラッセルの理論をさらに進めて、その真理価値を判断できないような論述は無意味だと言い切った。 忘れてならないのは、それは科学がますます広範な現象について明確な説明を与える一方、哲学がますます現実から離れたものになっていた時期だったという点である。
論理実証主義は科学的知識をその名にふさわしい理解の唯一の形態にまで高め、形而上学を締め出してしまった教義である。 ヴィトゲンシュタインはその『論理哲学論考』において「私の議論を理解した人は、私がこの本のなかで述べたことはすべて無意味であることがわかったに違いない」と結論している。
それは形而上学的な思弁の道の終わりと、科学を特徴づける事実にもとづく決定論的知識の全面勝利のようにみえた。 まもなくヴィトゲンシュタィンは自分の判断があまりにも厳しすぎたことをさとり、日常的な言語の使用に関して研究し始めた。
自然科学でさえも、それほど決定論的ではなくなってきた。 あるところを超えると観察をその対象主体から切り離しておくことができなくなるような限界に突き当たったからである。
科学者は最初はアインシュタインの相対性原理によって、次いでハイゼンベルクの不確定性原理によって、この障壁を突破した。


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